誰もが知りたかった.
しかし、
誰もつくろうとはしなかった江戸東京重ね地図
こんな地図が欲しかったのは、第一に私自身であった。歴史が好きで時代小説もよく読んだ。ところが、たかだか百数十年前の江戸がわからない。
人の考え方や行動は、その土地の人情や風俗、地政学上の条件、時代の制約によって決まってくるから、「いつ・どこで」がはっきりのみこめないと面白くないのである。「長谷川平蔵は、久しぶりに、その眺望をたのしむつもりで千代ケ崎へ向ったのだが、松平主殿頭(肥前・島原七万石)下屋敷の北側の道を歩むうちにも、雲行きが怪しくなってきた。」(池波正太郎・鬼平犯科帳18・俄か雨・文春文庫 下屋敷は抱屋敷の誤り)
さてここで私は、立止まって現場をたしかめたくなるのである。事件は、雨やどりをした竹薮の奥の百姓家で、「二つ三つは年上の、美しい年増女」を連れこんだ実直な同心の、ふらちな行状が発端となる。目黒不動堂・桐屋の黒飴・伊勢屋の筍飯・行人坂・白金台十丁目の旗本屋敷など
****** 生来の詮索癖は、やがて江戸全域に及ぶが、この私の要求に応えてくれる江戸図など、この世に存在しないことに気づくのだった。
池波さんの、深川から本所、日本橋、銀座あたりの土地勘は体で憶えこんだものだから、切絵図一枚あれば充分だろう。しかし「御府内場末」つまり切絵図で「百姓地」と記された地域の地形考証についてはお手上げだったどろう。江戸大絵図、切絵図では外濠の内外、本所深川辺りまでは現代の東京図との照合もかろうじて可能だが、方位と距離は歪め
られている。武家屋敷や寺社の大少、位置関係も当てにはならぬ。近郊農村-といっても現在の二十三区だが-に至っては、もはや単なる概念図でしかなく、地形照合努力の多くは途労に終ってしまう。
私は、近世江戸の貴重な文化遺産である古地図を、決しておとしめるものではない。しかし、当時の屋敷・寺社・道路 ・河川などを現代の地点に特定する作業のツールとしては限界があることを指摘せざるを得ない。こうして私は、自分のために実測江戸図をつくることになってしまった。それがこの江戸東京重ね地図である。
中川 恵司
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